小さい頃から、勉強だけは得意だった。
通知表を持って帰るたびに、お袋はいつも頭を撫でてくれた。
親父は何も言わなかったけど、その夜だけは晩酌のペースが早くなる。
それが褒め言葉だって、なんとなくわかっていた。
地方の田舎で小さな居酒屋を細々と営む、親父とお袋。
派手さも余裕もない。
でも、ほんのりと温かい、俺にとって居心地のいい家庭。
夕食の時間。
ずっと気になってた事がある。
俺の前には必ず肉や魚が並ぶのに、親父とお袋の前には漬物と味噌汁だけのことが多かった。
気になりながらも聞けずにいたけど、ある夜、思い切って口に出した。
「なんで二人はそれだけなの」
箸を止め、目を細めて笑うお袋。
「母ちゃん達はあんまりお腹すかないんだよ。ありがとうね、サトシ」
親父は何も言わず、黙って茶碗を持ち上げる。
俺は、その言葉をずっと信じていた。
高校3年生の春。
大学進学を決めた俺は、親父達に奨学金の話を切り出した。
学費のことが心配だった。
でも親父がそれを聞いた瞬間、珍しく強い口調で言った。
「いらん」
それだけを口にして、親父は奨学金の話をつっぱねた。
「サトシはお金の心配なんかしなくていいんだよ」
お袋は、静かに笑った。
志望の国立大学に合格が決まった日に、お袋から渡された印鑑と通帳。
中を確認して、言葉が出なかった。
四年分の学費と、一人暮らしの初期費用。
800万円がそこに入っていた。
「……いつの間に、そんな」
「少しずつためてたから、心配しないで」
そう言って微笑むお袋。
あの夕食の意味が、その瞬間やっとわかった。
少食だから、じゃなかった。
俺のために、ずっと切り詰めて生きてきたんだ。
だから頑張った。
二人を幸せにしたい。
ただ、それだけだった。
四年間死ぬ気で勉強した。
内定通知を見た夜、お袋が電話口で泣いた。
「サトシ、本当によかった。本当に、よかったね」
声が震えていた。
俺は受話器を握りしめたまま、天井を見上げた。
後日、親父から送られてきた小包。
小包を開けると、丁寧に折り畳まれた手紙と、梱包された箱が入っていた。
手紙を開く。
――社会人になるんだから、いい時計をしていけ。
親父らしい、不器用な愛情だった。
箱を開けると、銀色に輝く腕時計が顔を出した。
高級なブランド時計ではない。
でも、居酒屋の親父が買うには少し背伸びした値段の腕時計だって事は、すぐにわかった。
俺の目は潤んでいた。
でも、泣かなかった。
泣いたら負けな気がして、その時計を左手首にはめて、俺は東京へ向かった。
東和証券。
誰もが知る、東証プライム上場の証券会社。
俺の配属先は営業二課で、最初に声をかけてくれたのが、剛山課長。
「杉本、飯行くぞ」
入社三日目の昼休み。
有無を言わさない口調だったけど、悪い気はしなかった。
部下の面倒見がいいと課内で評判の剛山課長。
強引なところもあるけど、仕事ができて優しい、カッコいい俺の自慢の上司。
奢ってもらった焼き肉屋で、剛山課長はビールを飲み干し、口の端を上げた。
「お前、見込みあるわ。俺が育ててやる」
素直にそれを信じた。
最初の一年は、本当にそうだった。
顧客の攻略法、上の人間との付き合い方、数字の作り方。
飲みに連れて行ってもらい、ある夜は行きつけのクラブにも連れていってもらった。
ナナと名乗る女性が剛山課長に飛びつく。
慣れた様子で、常連だとすぐわかった。
俺の隣には、イオリと名乗る女の子が座る。
おとなしそうで、素朴な笑顔の可愛い女の子。
しばらくして剛山課長が俺を指さしながら笑った。
「こいつ、うちの課で一番伸びしろあるんだよ」
ナナが間髪入れずに乗っかる。
「そうなんですか。剛山課長が言うなら間違いないですよ」
剛山課長は上機嫌で笑った。
その時、隣に座っていたイオリが俺の方を向いて静かに言った。
「頑張り屋さんなんですね。素敵です」
お世辞じゃない柔らかい笑顔。
俺は少し戸惑って、曖昧に笑い返した。
自分には場違いな空間だったけど、剛山課長は楽しそうに笑っていた。
「たまには羽伸ばさないとな。真面目すぎるんだよ、お前は」
俺も笑った。
その頃はまだ、剛山課長のことを信頼していた。
こんな上司の下で働けるなら、頑張れると思っていた。
その感覚が、どれだけ高くつくか。
この時の俺は、まだ何も知らない。
問題が起きたのは、入社二年目の秋。
剛山課長に呼ばれたのは、ある月曜の朝だった。
「杉本、ちょっといいか」
誰もいない会議室に連れていかれ、剛山課長は珍しく声を落として話し始める。
「上のお客さんに、いい商品があるんだが――」
資産家の老夫婦への提案。
仕組債。
複雑な金融商品で、条件次第では元本が大きく目減りする。
俺には少し難しい案件だと思った。
「課長、リスクの説明は」
「俺が全部やる。お前は書類の処理だけしとけ」
疑わなかった。
課長の言葉を、俺はただ信じた。
それだけだった。
それだけのはずだった。
最初の電話が来たのは、それから三ヶ月が経った頃。
「どういうことだ。話が違う」
受話器の奥から、老人の声が響く。
電話越しでも、怒りで声が震えているのが伝わった。
仕組債の条件が悪化して、老後のために貯めた1億円のうち8千万以上が消えたという。
「リスクなんて聞いていない。説明もなかった」
血の気が引いた。
すぐに剛山課長の元へ向かう。
「課長、例の件なんですが、お客様から——」
「は? それお前が担当だろ」
書類から目を上げずに言った。
「俺は関係ない。お前が処理しろ」
その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
後で稟議書を確認して、やっとわかった。
書類が変わっていた。
剛山課長の名前が消えていた。
代わりに、俺の名前だけが残っていた。
リスク説明を行ったのは担当の杉本、と。
そう書いてあった。
手が震えた。
俺は、はめられた。
それからの日々は、地獄だった。
毎朝、デスクに着くたびに電話が鳴る。
老夫婦からの着信。
出るたびに怒鳴り声が耳を貫く。
「人生を返せ」 「お前のせいだ」 「どう責任を取るんだ」
一時間、二時間。
電話が終わっても耳の奥に声が残った。
頭が痛かった。
飯が喉を通らなかった。
夜、布団に入っても眠れなかった。
何事もなかったように振る舞う剛山課長。
朝は颯爽と出社して、昼は得意先と笑いながら飯を食って、夕方には部長と談笑して、夜になると颯爽と退社する。
俺が電話対応で消耗しているデスクの横を、一度も立ち止まらずに通り過ぎていった。
左手首の時計が、ふと目に入る。
親父が送ってくれた腕時計。
あの時の気持ちを思い返して、奥歯を噛んだ。
ある日、同僚の木村がそっと声をかけてきた。
「杉本、大丈夫か?」
顔を上げると、木村が心配そうにこっちを見ている。
その瞬間、何かが弾けた。
「大丈夫じゃねえよ」
低い声が出た。
自分でも驚くくらい、冷たい声。
「あんたも見てたくせに。誰も何もしないくせに、今さら大丈夫かって、そういうのいいんで」
木村は何も言わなかった。
静かに自分のデスクに戻っていく。
俺は、その背中をじっと見て、視線をモニターに戻す。
胸の奥が痛かった。
八つ当たりだってわかってた。
それでも止められなかった。
俺の心は、もう…壊れていたんだ。