小さい頃から、勉強だけは得意だった。
通知表を持って帰るたびに、お袋はいつも頭を撫でてくれた。
親父は何も言わなかったけど、その夜だけは晩酌のペースが早くなる。
それが褒め言葉だって、なんとなくわかっていた。
地方の田舎で小さな居酒屋を細々と営む、親父とお袋。
派手さも余裕もない。
でも、ほんのりと温かい、俺にとって居心地のいい家庭。
夕食の時間。
ずっと気になってた事がある。
俺の前には必ず肉や魚が並ぶのに、親父とお袋の前には漬物と味噌汁だけのことが多かった。
気になりながらも聞けずにいたけど、ある夜、思い切って口に出した。
「なんで二人はそれだけなの」
箸を止め、目を細めて笑うお袋。
「母ちゃん達はあんまりお腹すかないんだよ。ありがとうね、サトシ」
親父は何も言わず、黙って茶碗を持ち上げる。
俺は、その言葉をずっと信じていた。
高校3年生の春。
大学進学を決めた俺は、親父達に奨学金の話を切り出した。
学費のことが心配だった。
でも親父がそれを聞いた瞬間、珍しく強い口調で言った。
「いらん」
それだけを口にして、親父は奨学金の話をつっぱねた。
「サトシはお金の心配なんかしなくていいんだよ」
お袋は、静かに笑った。
大学合格発表の日。
昼の12時、俺の受験番号は347番。
震える右手を左手で押さえながら、スマホで合格発表ページを開く。
334――
―340―
――347
「――あった、あったよ……親父、お袋!」
親父は何も言わなかった。
ただ、大きな手が一度だけ、俺の頭に乗った。
その夜の食卓は、見たことがないほど豪華だった。
お袋はずっと嬉しそうに笑っていた。
皿が片付き、食後の余韻が漂う中、
「これ、サトシに」
お袋から不意に渡された印鑑と通帳。
中を確認して、言葉が出なかった。
四年分の学費と、一人暮らしの初期費用。
800万円がそこに入っていた。
「少しずつためてたから、心配しないで」
そう言って微笑むお袋。
あの日、口にした疑問が、その瞬間解けた。
お袋達は少食だったんじゃない。
二人は俺のために、自分たちの食事を削り続けていたんだ。
だから頑張った。
二人を幸せにしたい。
ただ、それだけだった。
四年間死ぬ気で勉強した。
内定通知を手にした夜、俺はすぐに実家へ電話した。
「サトシ、本当によかった。本当に、よかったね」
お袋は喜びながらも、時折鼻をすする音が聞こえた。
きっとまた泣いていたんだろう。
俺はスマホを耳に当てたまま、天井を見上げた。
後日、親父から送られてきた小包。
小包を開けると、丁寧に折り畳まれた手紙と、梱包された箱が入っていた。
手紙を開く。
――社会人になるんだから、いい時計をしていけ。
親父らしい、不器用な愛情だった。
箱を開けると、銀色に輝く腕時計が顔を出した。
高級なブランド時計ではない。
でも、居酒屋の親父が買うには少し背伸びした値段の腕時計だって事は、すぐにわかった。
俺の目は潤んでいた。
でも、泣かなかった。
泣いたら負けな気がして、その時計を左手首にはめて、俺は東京へ向かった。
東和証券。
誰もが知る、東証プライム上場の証券会社。
俺の配属先は営業二課で、最初に声をかけてくれたのが、剛山課長。
「杉本、飯行くぞ」
入社三日目の昼休み。
有無を言わさない口調だったけど、悪い気はしなかった。
部下の面倒見がいいと課内で評判の剛山課長。
強引なところもあるけど、仕事ができて優しい、カッコいい俺の自慢の上司。
奢ってもらった焼き肉屋で、剛山課長はビールを飲み干し、口の端を上げた。
「お前、見込みあるわ。俺が育ててやる」
素直にそれを信じた。
最初の一年は、本当にそうだった。
顧客の攻略法、上の人間との付き合い方、数字の作り方。
飲みに連れて行ってもらい、ある夜は行きつけのクラブにも連れていってもらった。
ナナと名乗る女性が剛山課長に飛びつく。
慣れた様子で、常連だとすぐわかった。
俺の隣には、イオリと名乗る女の子が座る。
おとなしそうで、素朴な笑顔の可愛い女の子。
しばらくして剛山課長が俺を指さしながら笑った。
「こいつ、うちの課で一番伸びしろあるんだよ」
ナナが間髪入れずに乗っかる。
「そうなんですか。剛山課長が言うなら間違いないですよ」
剛山課長は上機嫌で笑った。
その時、隣に座っていたイオリが俺の方を向いて静かに言った。
「頑張り屋さんなんですね。素敵です」
お世辞じゃない柔らかい笑顔。
俺は少し戸惑って、曖昧に笑い返した。
自分には場違いな空間だったけど、剛山課長は楽しそうに笑っていた。
「たまには羽伸ばさないとな。真面目すぎるんだよ、お前は」
俺も笑った。
その頃はまだ、剛山課長のことを信頼していた。
こんな上司の下で働けるなら、頑張れると思っていた。
その感覚が、どれだけ高くつくか。
この時の俺は、まだ何も知らない。
問題が起きたのは、入社二年目の秋。
剛山課長に呼ばれたのは、ある月曜の朝だった。
「杉本、ちょっといいか」
誰もいない会議室に連れていかれ、剛山課長は珍しく声を落として話し始める。
「上のお客さんに、いい商品があるんだが――」
資産家の老夫婦への提案。
仕組債。
複雑な金融商品で、条件次第では元本が大きく目減りする。
俺には少し難しい案件だと思った。
「課長、リスクの説明は」
「俺が全部やる。お前は書類の処理だけしとけ」
疑わなかった。
課長の言葉を、俺はただ信じた。
それだけだった。
それだけのはずだった。
最初の電話が来たのは、それから三ヶ月が経った頃。
「どういうことだ。話が違う」
受話器の奥から、老人の声が響く。
電話越しでも、怒りで声が震えているのが伝わった。
仕組債の条件が悪化して、老後のために貯めた1億円のうち8千万以上が消えたという。
「リスクなんて聞いていない。説明もなかった」
血の気が引いた。
すぐに剛山課長の元へ向かう。
「課長、例の件なんですが、お客様から——」
「は? それお前が担当だろ」
書類から目を上げずに言った。
「俺は関係ない。お前が処理しろ」
その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
後で稟議書を確認して、やっとわかった。
書類が変わっていた。
剛山課長の名前が消えていた。
代わりに、俺の名前だけが残っていた。
リスク説明を行ったのは担当の杉本、と。
そう書いてあった。
手が震えた。
俺は、はめられた。
それからの日々は、地獄だった。
毎朝、デスクに着くたびに電話が鳴る。
老夫婦からの着信。
出るたびに怒鳴り声が耳を貫く。
「人生を返せ」 「お前のせいだ」 「どう責任を取るんだ」
一時間、二時間。
電話が終わっても耳の奥に声が残った。
頭が痛かった。
飯が喉を通らなかった。
夜、布団に入っても眠れなかった。
何事もなかったように振る舞う剛山課長。
朝は颯爽と出社して、昼は得意先と笑いながら飯を食って、夕方には部長と談笑して、夜になると颯爽と退社する。
俺が電話対応で消耗しているデスクの横を、一度も立ち止まらずに通り過ぎていった。
左手首の時計が、ふと目に入る。
親父が送ってくれた腕時計。
あの時の気持ちを思い返して、奥歯を噛んだ。
ある日、同僚の木村がそっと声をかけてきた。
「杉本、大丈夫か?」
顔を上げると、木村が心配そうにこっちを見ている。
その瞬間、何かが弾けた。
「大丈夫じゃねえよ」
低い声が出た。
自分でも驚くくらい、冷たい声。
「あんたも見てたくせに。誰も何もしないくせに、今さら大丈夫かって、そういうのいいんで」
木村は何も言わなかった。
静かに自分のデスクに戻っていく。
俺は、その背中をじっと見て、視線をモニターに戻す。
胸の奥が痛かった。
八つ当たりだってわかってた。
それでも止められなかった。
俺の心は、もう…壊れていたんだ。