その日の帰り道、空はもう暗かった。
駅までの道を歩きながら、木村の背中がずっと頭から離れない。
あの言葉は木村の優しさだったって。
俺はただ誰かに八つ当たりしたかっただけだったって。
わかっていた。
それでも謝れなかった。
謝る気力も、もうどこかに消えていた。
人混みの中を歩いているのに、誰も俺のことを見ていない。
胸が張り裂けそうなほどの苦しみを……誰も知らない。
この重さを抱えているのは、世界で俺一人だけだと思った。
俺は今、どこへ向かいたいんだろう。
気が付いたら、駅とは反対方向へ歩いていた。
見慣れない路地に入り込んだが、今更引き返す気にもなれない。
どこへ向かうべきかも、どこへ向かいたいのかも、もう何もわからなかった。
路地の角に写る黒いシルエット。
黒猫は確かにそこにいた。
街灯の光を受けて、金色の目が静かに光っている。
逃げる気配もなく、鳴く気配もなく、ただじっとこちらを見つめてくる。
なぜかその視線から、目が離せなかった。
しばらく見つめ合っていると、猫は踵を返した。
路地の奥へ、ゆっくりと歩き始める。
行くべきじゃないとわかっていた。
それでも足が動く。
黒猫が一度振り返り、また歩き始める。
足が、自然と速くなっていく。
路地はどんどん細くなっていく。
街の音が遠のいて、自分の足音だけがやけにはっきり耳に届く。
どれくらい歩いただろう。
気づいた時には、黒猫の姿は消えていた。
俺が立ち止まっていたのは、古い門の前だった。
鉄でできた古い門。
錆びているのに、妙な存在感がある。
門の奥に見える建物は、洋館とも和館ともつかない不思議な造りをしていた。
夜の闇に溶け込むような、暗い館。
それなのになぜか、目が離せなかった。
手が、自然に門を押していた。
中に入った瞬間、空気が変わる。
外の騒音は完全に消え、重い静寂が体を包む。
生き物の気配がない静けさじゃなく、何かが息を潜めているような、そんな静けさ。
扉の前に立つと、誰も開けていないのにゆっくりと内側に開いていく。
まるで、招かれているようだった。
館の中は広かった。
揺れる蝋燭の光だけが頼りで、高い天井に影が何層にも重なり合っている。
最初に目に飛び込んできたのは、拷問器具。
断頭台、三角木馬、鉄の処女、引き裂き台——時代も国も違うものが、まるで展示品のように並んでいる。
どれも本物だとすぐにわかった。
使われた痕跡が、確かにあった。
どれだけの人間がここで苦しんだのか、想像するだけで背筋が冷える。
拷問器具の先には壁一面に広がる棚。
そこに並ぶ不可解な人形の数々。
首のないフランス人形、手足を削ぎ落とされた鹿、歪んだ顔のまま固まったものや、何かを抱えたまま動けなくなったものなど。
どれも普通の人形じゃなかった。
どれも、何かの末に生まれたものだと、見ただけでわかった。
その中の一体に、目が引き寄せられた。
着物姿の日本人形。
白い顔に、片目だけがなかった。
眼窩がぽっかりと空いていて、もう片方の目だけがまっすぐこちらを向いている。
口元には血が滲んでいて、泣いているような表情のまま固まっていた。
なぜかその人形から、どうしても目が離せなかった。
「気に入ったか」
男とも女とも受け取れる声が後ろから響く。
俺は咄嗟に後ろを振り向く。
女性なのか男性なのか分からない、子供なのか大人なのか分からない、深くフードを被った人影が、そこに立っていた。
「ここはどこですか」
自分の声が、妙に遠く聞こえた。
人影は答えなかった。
ただゆっくりと棚に近づき、あの日本人形をそっと手に取る。
そして何も言わずに、こちらへ差し出した。
受け取るつもりはなかった。
それでも手が動く。
人形は思ったより軽く、冷たかった。
手に収めた瞬間、何かが胸の奥に触れた気がした。
温度のない、それでいて確かな何かが。
「お前も、……したいことがあるだろう」
人影の声が、耳の奥に染み込んでくる。
答えようとした瞬間、意識が遠くなった。
目が覚めると、自分の部屋のベッドの上にいた。
両手の中に、あの日本人形があった。
夢が夢でなかったことを、それだけが証明していた。
カーテンの隙間から朝日が差し込む。
鳥の声が、遠くから聞こえた。