復讐の館 表紙

復讐の館

1人目「運が悪かった、ただそれだけだ」

第三章:重なる痛み

あの館が、あの人影が、本当にあったのか。

冷たい感触が、手のひらに馴染なじむ。

頭の中で反芻はんすうしながら、手の中の人形を見つめた。

片目のない日本人形が、まっすぐこちらを見ている。

血がにじんだ口元が、かすかに笑っているように見えた。

しばらく、そのまま動けなかった。

結局、人形を棚に置いてスーツを着た。

鏡の前でネクタイを締めながら、自分の顔を見る。

目の下にくまができていた。

ほおがこけていた。

いつからこんな顔になったんだろうと思ったけど、すぐにどうでもよくなった。

会社に着くと、いつものように電話が鳴る。

画面に表示された発信者名はっしんしゃめいを見て、奥歯を噛んだ。

出た瞬間に怒鳴り声が耳を貫く。

昨日と同じこえ、同じ言葉ことば、同じいかり。

俺は受話器をにぎりしめながら、窓の外を見ていた。

何も見えていなかった。

剛山課長は今日も何事もなかったように出社して、昼は三ツ木みつき部長の席でゴルフの話で盛り上がり、夕方には大口顧客おおぐちこきゃくとの接待の予約を取り付け、夜になると真っ先に消えた。

俺はその背中を目で追いながら、拳をにぎりしめた。

血がにじむほど、力を込めて。

夜、棚の上の人形をそっと見て、布団に入る。

目を閉じると、すぐに眠りに就いた。

その夜、夢を見た。

知らない場所。

でも俺はそこにいた。

いや、正確には違う。

見ていた。

まるで誰かの記憶の中に入り込んで、その人の目を通して世界を眺めているような感覚だった。

廊下の板がきしむ音。

着物の袖が揺れる感触。

ただよう香の匂い。

大奥おおおくだと、すぐにわかった。

一人のおんながいた。

将軍の寵愛ちょうあいを一身に受け、周りの女たちの羨望せんぼうの目が、その背中に注がれている。

その女の隣に、もう一人。

同じ部屋に仕えるおんなで、幼い頃から共に過ごしてきたような親しさがある。

何かあれば相談し合い、本当のことを話せる唯一の相手。

「そなたがいれば、何も怖くはない」

女は笑っていた。

目が覚めると、朝だった。

棚に置いたはずの人形が、枕元にあった。

人形をそっと棚へ戻し、身支度を整えて家を出る。

出社すると、すぐに剛山課長に呼ばれた。

「お前、毎日あの老夫婦から電話かかってきてるだろ。直接謝りに行ってこい」

理不尽な指示だけを残して、剛山課長は自分のデスクへ戻る。

納得はできない。

でも、反論もできなかった。

もう何も言い返す気力が残っていなかった。

都内の静かな住宅街。

インターホンを押す前に、深呼吸した。

何度も深呼吸した。

インターホンを押し、扉が開いた瞬間、老人の顔が見えた。

「あなたが杉本さんですか」

その声は低く、震えていた。

俺は、深く頭を下げた。

玄関先で土下座した。

「申し訳ございません。本当に、申し訳ございません」

長い沈黙。

地べたに額をこすりつけたまま土下座を続けていると、すすり泣く声が聞こえてきた。

顔を上げると老婦人が顔をおおい、小さく震えていた。

すすり泣きが、やがて嗚咽おえつへと変わってゆく。

それでも、言葉が出てくる。

「老後のために、二人でずっとためてきたんです。あなたたちに任せれば安心だって、そう信じていたのに」

声が裏返っていた。

「返してください。返してください。私たちの、人生を返してください」

怒鳴り声じゃなかった。

泣きながら、訴えていた。

それが、怒鳴られるより何倍も胸に刺さった。

俺はただ頭を下げ続けた。

謝り続けた。

でも何を言っても、何も変わらなかった。

帰り道、電車の中で窓の外を見ていた。

何も考えられなかった。

自宅に帰り、玄関で崩れ落ちた。

老夫婦の顔を思い出すと、辛くて立ち上がれなかった。

それでもなんとか部屋に入ると、棚の上の人形が、こちらを覗くようにたたずんでいる。

手に取ると、あの冷たさがまた指先に広がる。

誰かの悲しみがそのまま温度になったような冷たさ。

あの老夫婦の泣き顔を思い浮かべると胸が痛くなる。

怒鳴られた訳じゃない。

泣きながら訴えられた。

それが何より辛かった。

あの人たちは悪くない。

ただ、誰かが間違ったことをして、その皺寄しわよせがあの老夫婦に、そして俺に来ただけだ。

頑張れば報われると信じていた。

それだけだったのに。

スーツのまま布団に倒れ込んで、目を閉じた。

その夜も、夢を見た。

ある夜、将軍の食事を口にした毒見役が倒れた。

附子ぶしだった。

猛毒だ。

大奥おおおく中が騒然となる。

誰が盛ったのか。

調べが入り、女の部屋から同じ附子ぶしが見つかる。

身に覚えはなかった。

誰かが仕組んだと訴えても、誰も聞き入れようとはしなかった。

ただられるように、連れていかれた。

白状はくじょうせい」

「身に覚えはございませぬ」

「やったと申せ」

「致しておりませぬ」

口を割らない女は、海老責えびぜめを受ける。

後ろ手に縛られ、ひざを抱えて丸まらせられ、全身をきつく縛り上げられる。

血流が止まり、全身が燃えるような痛み。

それでも答えは変わらなかった。

やっていないから、やっていないと言い続けた。

ただそれだけだった。

執行人しっこうにんの手が顔に伸びる。

「ギァア"ァ"ア"——」

女の口から激しい叫び声。

視界の半分が、永遠に失われた瞬間だった。

「次は逆の目を頂戴するぞ。忘れるな」

牢屋に戻された。

暗く冷たい場所。

片目を失った視界で壁を見つめながら、それでも女は信じていた。

共に過ごしてきたあの女だけは、自分の無実を信じてくれていると。

扉が開いた。

信頼していた女が、水を持って入ってくる。

「喉がかわいたであろう」

いつもと同じ優しい声だった。

差し出された椀を受け取り、一口飲んだ瞬間に気づいた。

にがかった。

体の奥から何かがじわじわと広がっていく。

手足の感覚が遠のいていく。

「気づいたか?」

その女が、静かに笑う。

「将軍の御膳おぜん附子ぶしを仕込んだのも、そなたの部屋に附子ぶしを置いたのも、全てわらわが仕組んだことよ」

毒が回っていく。

体が動かなくなっていく。

残った片目で、女をまっすぐ見つめた。

「そなたが寵愛ちょうあいを受けるのが、ずっと許せなかった。ずっとじゃ」

言葉が続く。

でも何もできなかった。

ただ、にくしみだけがまされていった。

女が床に倒れる瞬間、俺はそのにくしみを全身で受け取った。

目が覚めると、朝だった。

また枕元に人形があった。

息が上がっている。

ほおを触ると、涙でれていた。