あの館が、あの人影が、本当にあったのか。
冷たい感触が、手のひらに馴染む。
頭の中で反芻しながら、手の中の人形を見つめた。
片目のない日本人形が、まっすぐこちらを見ている。
血が滲んだ口元が、かすかに笑っているように見えた。
しばらく、そのまま動けなかった。
結局、人形を棚に置いてスーツを着た。
鏡の前でネクタイを締めながら、自分の顔を見る。
目の下にくまができていた。
頬がこけていた。
いつからこんな顔になったんだろうと思ったけど、すぐにどうでもよくなった。
会社に着くと、いつものように電話が鳴る。
画面に表示された発信者名を見て、奥歯を噛んだ。
出た瞬間に怒鳴り声が耳を貫く。
昨日と同じ声、同じ言葉、同じ怒り。
俺は受話器を握りしめながら、窓の外を見ていた。
何も見えていなかった。
剛山課長は今日も何事もなかったように出社して、昼は三ツ木部長の席でゴルフの話で盛り上がり、夕方には大口顧客との接待の予約を取り付け、夜になると真っ先に消えた。
俺はその背中を目で追いながら、拳を握りしめた。
血が滲むほど、力を込めて。
夜、棚の上の人形をそっと見て、布団に入る。
目を閉じると、すぐに眠りに就いた。
その夜、夢を見た。
知らない場所。
でも俺はそこにいた。
いや、正確には違う。
見ていた。
まるで誰かの記憶の中に入り込んで、その人の目を通して世界を眺めているような感覚だった。
廊下の板が軋む音。
着物の袖が揺れる感触。
漂う香の匂い。
大奥だと、すぐにわかった。
一人の女がいた。
将軍の寵愛を一身に受け、周りの女たちの羨望の目が、その背中に注がれている。
その女の隣に、もう一人。
同じ部屋に仕える女で、幼い頃から共に過ごしてきたような親しさがある。
何かあれば相談し合い、本当のことを話せる唯一の相手。
「そなたがいれば、何も怖くはない」
女は笑っていた。
目が覚めると、朝だった。
棚に置いたはずの人形が、枕元にあった。
人形をそっと棚へ戻し、身支度を整えて家を出る。
出社すると、すぐに剛山課長に呼ばれた。
「お前、毎日あの老夫婦から電話かかってきてるだろ。直接謝りに行ってこい」
理不尽な指示だけを残して、剛山課長は自分のデスクへ戻る。
納得はできない。
でも、反論もできなかった。
もう何も言い返す気力が残っていなかった。
都内の静かな住宅街。
インターホンを押す前に、深呼吸した。
何度も深呼吸した。
インターホンを押し、扉が開いた瞬間、老人の顔が見えた。
「あなたが杉本さんですか」
その声は低く、震えていた。
俺は、深く頭を下げた。
玄関先で土下座した。
「申し訳ございません。本当に、申し訳ございません」
長い沈黙。
地べたに額を擦りつけたまま土下座を続けていると、すすり泣く声が聞こえてきた。
顔を上げると老婦人が顔を覆い、小さく震えていた。
すすり泣きが、やがて嗚咽へと変わってゆく。
それでも、言葉が出てくる。
「老後のために、二人でずっとためてきたんです。あなたたちに任せれば安心だって、そう信じていたのに」
声が裏返っていた。
「返してください。返してください。私たちの、人生を返してください」
怒鳴り声じゃなかった。
泣きながら、訴えていた。
それが、怒鳴られるより何倍も胸に刺さった。
俺はただ頭を下げ続けた。
謝り続けた。
でも何を言っても、何も変わらなかった。
帰り道、電車の中で窓の外を見ていた。
何も考えられなかった。
自宅に帰り、玄関で崩れ落ちた。
老夫婦の顔を思い出すと、辛くて立ち上がれなかった。
それでもなんとか部屋に入ると、棚の上の人形が、こちらを覗くように佇んでいる。
手に取ると、あの冷たさがまた指先に広がる。
誰かの悲しみがそのまま温度になったような冷たさ。
あの老夫婦の泣き顔を思い浮かべると胸が痛くなる。
怒鳴られた訳じゃない。
泣きながら訴えられた。
それが何より辛かった。
あの人たちは悪くない。
ただ、誰かが間違ったことをして、その皺寄せがあの老夫婦に、そして俺に来ただけだ。
頑張れば報われると信じていた。
それだけだったのに。
スーツのまま布団に倒れ込んで、目を閉じた。
その夜も、夢を見た。
ある夜、将軍の食事を口にした毒見役が倒れた。
附子だった。
猛毒だ。
大奥中が騒然となる。
誰が盛ったのか。
調べが入り、女の部屋から同じ附子が見つかる。
身に覚えはなかった。
誰かが仕組んだと訴えても、誰も聞き入れようとはしなかった。
ただ引き摺られるように、連れていかれた。
「白状せい」
「身に覚えはございませぬ」
「やったと申せ」
「致しておりませぬ」
口を割らない女は、海老責めを受ける。
後ろ手に縛られ、膝を抱えて丸まらせられ、全身をきつく縛り上げられる。
血流が止まり、全身が燃えるような痛み。
それでも答えは変わらなかった。
やっていないから、やっていないと言い続けた。
ただそれだけだった。
執行人の手が顔に伸びる。
「ギァア"ァ"ア"——」
女の口から激しい叫び声。
視界の半分が、永遠に失われた瞬間だった。
「次は逆の目を頂戴するぞ。忘れるな」
牢屋に戻された。
暗く冷たい場所。
片目を失った視界で壁を見つめながら、それでも女は信じていた。
共に過ごしてきたあの女だけは、自分の無実を信じてくれていると。
扉が開いた。
信頼していた女が、水を持って入ってくる。
「喉が渇いたであろう」
いつもと同じ優しい声だった。
差し出された椀を受け取り、一口飲んだ瞬間に気づいた。
苦かった。
体の奥から何かがじわじわと広がっていく。
手足の感覚が遠のいていく。
「気づいたか?」
その女が、静かに笑う。
「将軍の御膳に附子を仕込んだのも、そなたの部屋に附子を置いたのも、全てわらわが仕組んだことよ」
毒が回っていく。
体が動かなくなっていく。
残った片目で、女をまっすぐ見つめた。
「そなたが寵愛を受けるのが、ずっと許せなかった。ずっとじゃ」
言葉が続く。
でも何もできなかった。
ただ、憎しみだけが研ぎ澄まされていった。
女が床に倒れる瞬間、俺はその憎しみを全身で受け取った。
目が覚めると、朝だった。
また枕元に人形があった。
息が上がっている。
頬を触ると、涙で濡れていた。