枕元の人形をそっと棚に戻し、昨日のスーツのまま家を出た。
いつものように電車に揺られ、会社へ向かう。
東和証券のビルへ入り、エレベーターで営業二課へ。
全部、体が勝手にやっていた。
デスクに着くなり、木村が足早で駆け寄ってきた。
「今日の午後、緊急の対策会議が入ってる。杉本も出席するようにと」
嫌な予感がした。
会議室に入った瞬間、空気が変わる。
会長、社長、営業本部長、コンプライアンス担当役員、法務部長、三ツ木部長、そして剛山課長。
全員がすでに着席していて、俺だけが最後に入る形になっていた。
一番端の席に座るよう、法務部長が無言で示す。
資料が配られる。
中を見た瞬間、手が止まった。
稟議書だけじゃない。
顧客への説明記録、社内報告書――全ての書類に俺の名前が記されている。
リスク説明義務違反、担当者の不適切な対応、顧客への説明不足。
剛山課長の名前は……どこにもない。
法務部長が淡々と経緯を説明し始める。
「今回の件につきましては、担当者である杉本君による説明義務違反が主因と判断しております」
室内の視線が、一斉に俺に向かう。
剛山課長は神妙な顔をして手元の資料に目を落としている。
「私も管理職として監督が行き届かず、大変申し訳なく思っております」
静かな、殊勝な声だった。
「違います」
気づいたら声が出ていた。
「私はただ、課長の指示通りに動いただけです。書類も、元々は課長の名前が——」
「もういい」
社長が低い声で遮る。
テーブルに手をつき、こちらを見ていた。
「調査の結果については法務部長から説明があった通りだ。今この場での言い訳は聞く必要はない」
コンプライアンス担当役員が続ける。
「処分については追って正式に通知します。本件の再発防止策と顧客対応については——」
会議はそのまま続いていく。
再発防止策、顧客への謝罪窓口、社内調査の今後の方針。
言葉が次々と飛び交う中、俺はただ座っていた。
資料を見ていた。
でも何も頭に入らない。
会議が終わり、重役たちが次々と会議室を出ていく。
最後に立ち上がった剛山課長が、出口でふと振り返る。
俺と視線が交わった。
一瞬だけ、口の端が動く。
笑ったのか、それとも別の何かだったのか。
次の瞬間には背中を向けて、廊下を歩いていく。
その背中が角を曲がって見えなくなるまで、椅子から立ち上がれなかった。
手のひらに、爪の跡が残っていた。
会議室を出ると、廊下に木村が立っていた。
「杉本――」
呼ばれた気がした。
でも足が止まらない。
「杉本、ちょっと待って——」
木村の声が、どこか遠くから聞こえる。
エレベーターのボタンを押すと、すぐに扉が開いた。
乗り込んで、閉じるボタンを押す。
ゆっくりと扉が閉まっていく。
閉まる直前、木村がまだ何か言っていた。
でも今の俺には、言葉として入ってこなかった。
その夜、気づいたら外を歩いていた。
どこへ向かうつもりだったのか、自分でもわからない。
ただ部屋にいられなかった。
壁と天井に囲まれているだけで、息が詰まる気がした。
金と性が群がる、表向きは煌びやかな飲み屋街。
ネオンが滲んで見える。
足が勝手にそちらへ向かっていく。
人の声、笑い声、酒の匂い。
全部が遠かった。
全部が別の世界の話に聞こえる。
あのクラブの前を通りかかった時、扉が開いた。
客を見送りに出てきたらしい女の子と、目が合う。
見覚えがある顔だった。
「……杉本さん、お久しぶりですね」
その子は俺の名前を覚えていた。
こちらは名前が出てこない。
でも、顔は確かに覚えていた。
剛山課長に連れてこられたあの夜、隣に座っていた子だ。
「よかったら、どうぞ」
断る理由も、断る気力もなかった。
その子に案内されて席に着く。
グラスにシャンパンが注がれる。
俺は黙って口に含んだ。
その子がやわらかい声で話してくれた。
「イオリの弟がね、最近サッカー始めたんですよ。もう毎日泥だらけで帰ってきて、洗濯が大変で……」
返事をしなくても話し続けてくれる。
イオリ、そういえばそんな名前だったな、と心の中で思い出した。
俺はただグラスを傾けながら、その声を聞いていた。
しばらくして、イオリは潤んだ瞳でこちらを覗き込んだ。
「今日、何かありました?」
答えようとした瞬間——
「よお、杉本じゃねえか」
この耳障りな潰れた声、聞き間違えるはずがなかった。
振り返ると、剛山が立っている。
スーツのジャケットを肩にかけて、上機嫌な顔。
隣には剛山のお気に入りのホステス、ナナがいた。
「奇遇だな。一人か?」
俺は立ち上がっていた。
「なぜですか」
自分の声が、妙に落ち着いて聞こえた。
「なぜ、俺なんですか。課長がやったことじゃないですか」
店内の空気が変わる。
固まるナナ。
息を呑むイオリ。
剛山はしばらく俺を見ていた。
それからゆっくりと、口の端を上げる。
「お前は運が悪かった。ただ、それだけだ」
笑っていた。
「そういうこともある。社会ってのはそういうもんだ」
言葉が続く。
でも俺の耳には、最初の一言しか残らなかった。
運が悪かった。 ただ、それだけだ。
「——絶対に、許さない」
気づいたら口から出ていた。
鼻で笑う剛山。
「今日は気分がいいから、お前の分も俺が奢ってやる。感謝しろよ、杉本」
ナナを連れて奥の席へ向かっていく。
不快な笑い声が徐々に遠ざかる。
財布を取り出してテーブルに金を置き、立ち上がった。
その瞬間、「杉本さん」とイオリが呼んだ気がした。
でも足は止まらなかった。
店を出ると、冷たい夜の空気が頬に突き刺さった。